蟻通神社ブログ
泉佐野市長滝村の民間信仰
<境内にある牛神祠について> かつて長滝村には、氏神や寺院のほかに、路傍の石仏や小祠小堂など数多くの小さな祭祀対象物が存在していました。しかし、これらの多くは、明治40年代の神社合祀、さらに昭和17年(1942)の飛行場建設によって、氏神蟻通神社をはじめ、多くの祭祀物が移動、合祀、廃社を余儀なくされました。
長滝には、社寺や庄屋の家に多くの古記録、古文書が伝わっていますが、こういった史料(蟻通神社所蔵文書の「申傳シ御物語」や 「長滝村絵図」や 「道中記A本」など)には、現在は消滅し、伝承すら途絶えた小祠や小堂などの路傍の神仏の存在が記されています。 現在の境内地の本殿脇東奥に牛神祠が鎮座しています。これは、大正13年に長滝3番の牛神3社ともが合祀されたものです。
泉州地域の牛神は、一般的に牛神祭り、牛神座として7月盆に農耕牛の生育を願って祭祀されるが、長滝ではかつて七夕の朝に牛を川や池で洗ったという慣行が聞かれますが、牛神祭りの伝承は途絶えています。
昭和に入ってからの調査では、旧暦7月7日に、宮座の「年寄」で牛を飼っている人が、神社に合祀された牛神に、野菜類を供えて祭祀したそうです。祭が済むと供え物を持ち帰って、牛に与え、農耕牛の健康を願われたということです。
牛神祠です。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月30日
蟻通神社境内にある智恵神社について
<境内の東側に鎮座しています。>
●智恵神社(智恵神さんと呼ばれています)●ご祭神・・・蟻通明神の分霊を勧請●ご神徳・・・学業成就・智恵・親孝行・の守護神
この智恵神さんは、蟻通神社の氏子さんでいらっしゃった、大阪教育大学名誉教授で文学博士の芝野庄太郎先生が昭和57年5月に創祀してくださいました。 芝野先生は、残念ながら数年前にお亡くなりになられたのですが、当神社発展のために大変ご尽力下さいました。
●芝野先生がお書きになられた、智恵神の社殿創祀 表白文です。
『 蟻通大明神は済世利民の誓願に則り、当地に鎮座ましましてよりここに二千年、御威徳のもと氏子は恩恵に浴し、生活は愈々繁栄して今日の隆昌を迎う。
本日蟻通大明神の智恵親孝行の分霊を勧請してここに祀る。栴檀(せんだん)は双葉より香ばしく、三ツ子の魂は百までと言えり。
されば誕生の忌あき参り(初宮参りのことです)、七五三の祭、十五歳の立志式、二十歳の成人式に学業の成就を祈り心身両面の健全な発達のあらしめんことを祈り奉る。
いまや国際的、国内的に変化激しく、生涯にわたって学習すべき時代となる。学業にすぐれ、業務に熟練すべき智恵を授けたまわんことを。
更に請い願わくは、家庭は、核家族にして高年齢化の構造となり、老人福祉と親孝行が求められる社会なれば、老人を敬し孝養の誠を尽し、家門の繁栄と各願成就の利益を垂れ給わんことを。
更に仰ぎ願わくは東西南北の経済摩擦をなくし、核兵器を廃絶し、世界は平和にして、二度と戦争の惨禍なく、万民に幸福なる日々の生活を送らしめ給わんことを祈り奉る。 昭和五十七年五月一日 蟻通神社 氏子 大阪教育大学名誉教授 文学博士 芝野 庄太郎 敬 白 』
大変立派な文章で、先生の高潔で信心深いお人柄が表れています。今から28年前に書かれた文章なのですが、その当時に高齢化社会や世の中がグローバル化していることや核の問題など正に現代社会が直面している問題を先見の明で見抜かれていたのはさすが先生だなと感服いたします。 ●智恵神社です
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月23日
末社さん・その4
<境内にある4つ目の末社さんについて>
4.和泉五社です。● 和泉五社とは 和泉の国は、五畿内の一にして元正天皇2年(716)、河内の国より分かって和泉監を置きます。和泉の国は、大鳥郡(10郷)・和泉郡(10郷)・日根郡(4郷)の三郡・24郷ありました。 第一宮 大鳥郡・・・大鳥大明神 第二宮 和泉郡・・・穴師大明神 第三宮 和泉郡・・・信太聖大明神 第四宮 和泉郡・・・積川大明神 第五宮 日根郡・・・日根大明神
以上が和泉五社の大明神です。 平安時代においては国司は、任国の主要神社に神拝するのが例になっていました。また、諸国国内の神社の管理・祭祀は国司の任務であり必要に応じ奉幣などを行うこととなっていました。
平安時代後期以降に成立した一宮、総社などは、国司の神拝や任務の執行にあたって国内神社の序列化が、起源ではないかと考えられています。また、そうした国司の側の主導で成立したというのでなく、諸国国内において自然発生的に生じた神社の序列を、国司の側が公認したものであろうとする見方もあるそうです。
いずれにしても一宮・二宮・三宮といったその序列は、準公的な一種の社格として機能しましたが、必ずしも固定的なものではなく、神社の勢力が変化したことなどによって入れ替わった例もあるそうです。
第五宮の日根神社は、日根荘の総社で、昔は、日根野村・上之郷村・長滝村・兎田村を氏子に持ち、旧式内社です。
現在は、兎田村は、氏子から抜けています。
長滝・上之郷は、それぞれの氏神神社と日根神社の二重の氏子ということです。その起源は、いつごろからなのか、私の手元に資料がないので詳しいことは分からないのです。
参考資料:「泉佐野の神社めぐり」
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年06月22日
近つ飛鳥博物館に行ってきました。
<画家中島裕司先生の個展>
「二つの飛鳥」の風景画展が5月29日から6月19日まで開かれていました。自然がいっぱいの美しい風景画が、たくさん展示されていました。
6月22日から6月26日までは、奈良県明日香村の画廊飛鳥で開かれます。
大阪に住んでいながら、近つ飛鳥博物館へ訪れるのは初めてでした。近鉄長野線喜志駅からバスに乗ったのですが、大勢のベテランの山男・山ガールの方たちとご一緒でした。周辺に、山登りのルートがあるのでしょう。 終点の阪南ネオポリス(ネオポリスとは新しい都市という意味だそうです。)で降りると住宅街から途端に緑に囲まれた博物館の入口が見えてきました。 「近つ飛鳥」という地名は、古事記に記載があり、履中天皇の弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというものだそうです。
「近つ飛鳥」は今の羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。近つ飛鳥博物館の周辺は、古墳や重要な遺跡・遺物が数多く分布していて、博物館では、大阪府を中心とする古墳時代から飛鳥時代の古墳などの遺跡に調査・研究の成果を分かりやすく展示した古墳とその時代に関する専門博物館だそうです。
建物は、かの有名な安藤忠雄氏が設計され、展示室を上から見ると前方後円墳の形をしているのだそうです。立派で素敵な建物でした。いろいろなイベントも催されていますので、また訪れてみたいなと思いました。
参考資料:近つ飛鳥博物館のホームページより抜粋させていただきました。
ここを左に曲がると両側が高い壁の通路です。
博物館の玄関です。
そびえる塔「黄泉の塔」
ここからは、中島先生の個展会場の写真です。
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年06月21日
末社さん・その3
<蟻通神社の末社さんについて> 本殿に近い方から3つ目の末社さんです。
3.住吉神社
●ご祭神・・・底筒男(ソコヅツノオ)命・中筒男(ナカヅツノオ)命・
表筒男(ウワヅツノオ)命・
息長足姫(オキナガタラシヒメ)命(神功皇后)
●ご神徳・・・禊祓・海上渡航の神としての信仰を中心に、
産業・文化・外交・貿易の神。 また農業・和歌の神として広く崇敬されてきました。
●本社は、大阪市住吉区に鎮座される、全国に祭られる住吉神社の総本宮、住吉大社です。旧官幣大社、『延喜式』明神大社、摂津国一宮の大変有名な神社です。
ご祭神の筒男神三柱は、住吉大神と総称されますが、イザナギが禊祓をしたときに生まれた神々であります。 遣唐使は、出発に際して航海安全を願い参拝するのを常としていました。また、古くより朝廷の崇敬を受けましたが、源頼朝や足利尊氏らの武将にも崇敬されました。
●旧社地の蟻通神社は、熊野街道沿いに鎮座し、その立地から行路の安全を祈る旅人の信仰を集めたと考えられています。このような関係からか、蟻通神社の信仰は、沖を行く漁師の海上安全にかかわる儀礼にも及んでいたそうです。 かつて、佐野浦には、「有通帆下げ松」「帆かくし松」などと呼ばれる沖からの目印松が数本存在していました。 うち、「有通帆下げ松」は、佐野松原の上善寺山に生える二本松をさし、この松は明治時代の佐野名所絵ハガキになったほどの銘木で、漁師が沖より神社ご在所印の松として礼を正して帆を下げたそうです。 残念ながらこの松は、昭和17年に立ち枯れし、現在上善寺と蟻通神社にその根の一部が保管されています。
こういった伝承から、非常に有名な住吉神社さんを当神社で、お祀りさせて頂いているのかなと(由緒は、不詳なのですが)私個人は、想像しています。
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年06月16日