<蟻通神社はなぜ移転したのか?>
旧陸軍は、増大する戦闘機の乗員の訓練のために昭和13年三重県明野に飛行場を建設し、太平洋戦争が始まるとさらに乗員の訓練のために全国数ヶ所にその分教所の設置を進めました。この分教所の一つとして設置されたのが佐野分教所であります。 陸軍佐野飛行場の建設がはじまったのは、昭和17(1942)年からでした。この飛行場の史料については、終戦直後に散逸するなどし、ほとんどみつかっていないそうです。また、軍の施設ということでその実態は、十分に明らかにはされていず、地元の方々も具体的な機能については、知らないまま終戦を迎えたそうです。
しかし、関西国際空港が建設されることがきっかけになって、郷土の歴史を研究されている先生方が、佐野飛行場の記録を残そうと調査されました。関係者や、地域の方々からの聞きとり等が行われたり、わずかに残っている飛行場の痕跡等も調べられて史料を残されています。
南海鉄道と阪和線の間の佐野町・日根野村・長滝村・南中通村にまたがる田園地域に飛行場が建設されました。強制移転で消失した土地は、280ヘクタールにおよびました。 民家は移転させられ松屋・一里山・南村・野添・俵屋の一部などの集落が消滅しました。
熊野街道沿いにあった蟻通神社も移転しました。
滑走路は、幅60メートル、長さ1200メートルあり、今の末広公園のあたりに着陸していたそうです。滑走路の先の貝の池は、飛行の障害になるため堤防が削られました。南海鉄道の羽倉崎駅や直線の道路は、飛行場建設のためにつくられました。
昭和19年には、練習機が飛び始め、昭和20年には、本土防衛のため飛行部隊が配置され、戦闘機も配備されました。訓練所だけではなく、飛行場としても機能していたそうです。戦争が終わると飛行場跡地は、農家の方々に返却され、開拓地となりますが、灌漑施設がないため、開墾には、困難が伴いました。
当時のことを記憶に留めていらっしゃる地元の方々がご自分たちの出身の野添村(消えた村)や蟻通神社のことを絵図に残されています。自分が住んでいた家や村がなくなり、農地を失い、生活の術を失い、大変な苦労をされて過ごされたと書かれています。
平和な日本に生きている私には、想像できないことがたくさんあっただろうと思いますと、この平和な時代が末永く続きますようにと願うばかりです。
参考文献:「泉佐野市史研究第2号」 「長滝の民俗」 「消えた村ー長滝村野添 移転した蟻通神社」
蟻通神社跡 石碑直ぐ横を空港連絡道路が走っています。
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