<紀貫之が冠を落としたとされる冠之淵について>
世阿弥作の「蟻通」では、紀州の玉津嶋神社に参詣に行く途中に蟻通神社の前を通りかかったという設定ですが、『貫之集』では、「紀の国に下りて、帰り上りし道にて、・・・・・」とあり、京に帰る途中に通りかかったと出ています。どちらが真実なのかは、分かりませんが、お能の方は、演出を考えて行く途中に設定したのかもしれません。 『貫之集806』 に蟻通の歌が載っていますので、紀貫之が蟻通神社前を通りかかって、歌を詠んだのは、確かだと思われます。 貫之集に記載されている歌は、蟻通の謡曲に出てくる歌と、少し異なっています。以下に記します。
「 かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思うべしやは」
(訳)かき曇り、ものの区別もつかぬ闇のような大空に、星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「ありと星をば」すなわち「星をば大空にありと思ふべしやは」の意と、「蟻通(の神)をば」の意とを掛けた掛詞で、 闇空に星があるとは思えないということと同時に、こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない。の意を表します。
住吉大社や玉津嶋神社ほど著名ではない路傍の神が、歌聖・紀貫之の歌を手向けて欲しさに怪異を起こしたのではと考えると蟻通の神は、むしろ人なつかしい神威といえるでしょうと書いて下さる先生もいらっしゃいます。
本殿が熊野街道に背を向けているのは、物咎めをする神として有名で往還の旅人に神祟があるので、後世の人がうしろむきにして、表と裏の両方に鳥居を作ったといわれています。 紀貫之の馬が神威に触れよろめいた時、貫之が冠を傍らの渕(わき水の小池)に落としたとして「冠之渕」と名付けました。
寛政年間には、幕府による渕の改修が行われ、中ノ島の上に「紀貫之大人冠之渕」と彫られた花崗岩の碑が立てられました。移転先の現在地には、元の姿を復元したものが整備されています。
参考文献国立能楽堂H・22年7月パンフレットより 樋野修司先生(泉佐野の歴史と今を知る会) 村上たたう先生(蟻通の観賞の手引)能の見どころ (東京美術) 村上たたう先生 貫之集(新潮日本古典集成)
●移転前の冠之渕の写真が出てきました。
おそらく、昭和5年頃と思われます。モノクロで分かりにくいのですが、写っているのは、先代の宮司です。
現在の冠之渕です。写っているのは、現宮司です |
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月17日 |
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