< 紀 貫之 (きの つらゆき) 縁(ゆかり)の絵馬> 原画制作は、日本美術家連盟会員・国際美術家連盟会員・大阪芸術大学非常勤講師 その他、たくさんの経歴をお持ちの 河南町の中島 裕司(ナカジマ ヒロシ) 先生です。 先日のブログの投稿時、先生のお名前を間違えてしまいました。先生をはじめ、周りの皆様には、大変ご迷惑をおかけ致しました。訂正して、お詫び申し上げます。 ずっと以前から、神社の由緒を氏子崇敬者の皆様に知っていただけるような絵馬を作りたいなと思っていました。昨年の暮れに、作者の中島先生とご縁をいただき、無理をお願いしまして、格調高い馬上の 紀貫之 の姿を描いて頂きました。 大変、立派な絵馬に仕上がりました。神社に御参詣の折に、ご覧になって下さいませ。 では、蟻通神社は、なぜ、平安時代の歌人
「 紀貫之 」と縁があるのでしょうか? 〔答え〕 蟻通神社の創祀は、九十三年といわれています。戦前の強制移転の前は、熊野街道沿いに鎮座していました。 平安時代の歌人「紀貫之」が、神社の前を乗馬したまま、通過しようとした非礼を神が咎めて、馬が病で倒れました。 その時、通りかかった人(宮守り)から蟻通の神に祈るように勧められたが、弊がなかったことから、歌を詠んで奉納しました。 その結果、馬の病気が、治り「紀貫之」は、無事に帰ることができました。 その時に詠んだ歌が以下のものです。 かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思うべしやは
注釈:かきくもり、ものの区別もつかぬ闇のような大空に、星があるなどと思うはずがあろうか。「ありとほしをば」には、「ありと星をば」すなわち「星をば大空にありと思うべしやは」の意と、 「蟻通し(の神)をば」の意とを掛け、闇空に星があるとは思えないということと同時に、こんな無体な仕打ちを、蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表す。
紀貫之「貫之集 第九」 新潮日本古典集成より
この故事により、当時は、立派な社殿もなく鬱蒼とした杜であっただろう小さな神社が、いろいろな古典文学に取り上げられました。「枕草子」や「謡曲 蟻通」 等々です。 蟻通神社に、平安時代の大変有名な高貴な歌人がお立ち寄りになられたということが、その後の神社の繁栄に、大いにつながっています。 蟻通の神様のご神徳があったのだろうと思っています。神社の由緒を氏子崇敬者の皆様にもっと、お伝えしていかなければならない義務があるなと思い、「紀貫之」の絵馬を作らせて頂きました。 |