<長滝中のまぼろしのだんじり>
蟻通神社の氏子地域は、長滝東の番・長滝中の番・長滝西の番の3町です。同じ長滝という地名が付くのですが、それぞれ別の町のように独立した自治運営をされています。 だんじりもそれぞれ、1台ずつあって由緒も様々です。 その中で、今回は長滝中の番のだんじりを採り上げたいと思います。
長滝中のだんじりは、まぼろしのだんじりとして、だんじり愛好者の方々の中では、知る人ぞ知るだんじりなのです。 そのだんじりについて書かれている資料は、 泉佐野の歴史と今を知る会の北山理先生著「百人の佐野物語第6集・泉佐野の祭りと盆踊り」、
泉佐野教育委員会編集「泉佐野の祭り」、
長滝中の番町内会、地車修理推進委員会発行「泉佐野市長滝中の番四ツ屋根地車の由緒」です。
幻の地車発見の経緯は、昭和47年岸和田市制50周年に、市のダンジリ愛好者の方々が、地車のルーツを調査されたことがきっかけだそうです。研究熱心な人々は、泉南、泉北の泉州地方に200台近くあるといわれる地車をくまなくあたり、その制作年代、形態、彫刻等をもつぶさに調査されました。 岸和田市の地車研究家の方が、昔、岸和田の本町と大工町の地車は四ツ屋根であったと研究結果に載せられていました。そのことをたどり、何人もの人を介して、長滝中の地車は、大工町から購入したということがわかりました。
愛好者の方々が、長滝に来られ、各部分の写真を撮り、詳細に調査され、古老の話などを総合して、幻の四ツ屋根地車であると断定されました。 またその後、この地車の設計絵図面が発見され、大工町の地車であることが証明されました。
その図面には、大工町檀尻 五分壹図 文久二壬戌九月 作之 梶治三郎重忠(花押) と墨書されていたそうです。
昭和49年5月〜6月に「まぼろしの四ツ屋根地車見つかる。しかも原型の姿で見つかった。」と四大新聞に掲載されました。
<なぜ、まぼろしなのか?>
元禄年間、当時の岸和田藩主岡部長泰公は、領民の曳く地車が城郭内の神社に参拝することを許可したと伝えられています。 当初は現在のような豪華で優美な彫刻をめぐらせた楼閣をおもわすようなものではなかったですが、祭の日は、町民が、地車を曳き歓声を上げて城内へ入り、神社の参拝を終えて大手門より退城したと伝えられています。城下町の繁栄につれて地車は、年々その数を増やし、その姿形も名工・名匠たちの苦心工夫の結果、豪華絢爛たるものになってきました。 嘉永4年岸和田藩が幕府の命令によって、日光の東照宮の改築にあたるため大工、彫刻師等が、大勢日光へ赴きました。これらの技術者たちが日光の陽明門の華麗さに魅せられて、帰国し、やがて地車にその姿を取り入れたものであろうと伝えられています。
中の番の地車(当時は、岸和田大工町のもの)もその頃作られました。数ある中で、当時でも珍しい四ツの破風のある名匠苦心の作による優美な四ツ屋根地車は、目立ったと思われます。四ツ屋根とは、屋根が四ツ有るという意味ではなく、破風(はぶ)が前と後にあるのが今日の地車の形ですが、さらに大屋根の左右二ヶ所にあり、計四ヶ所に破風が作られています。この破風が日光の「陽明門」の上部の形に非常によく似ているのだそうです。
また、特長としてロープの操作により滑車の伝道装置が働き、屋根が、上下動できることです。これは、岸和田城内に入るには、いくつもの門をくぐらなければならず、屋根を動かすことは名匠が苦心されました。しかし、時代が新しくなり、屋根を上下させる必要がなくなり、徐々に新しい豪華な地車に変わっていきました。 幕末の動乱につぎ、明治維新、廃藩置県、行政の大改革等、激動の時代が続きましたが、長滝の四ツ屋根だんじりは、健在だったそうです。しかし、ようやく世情が安定してきた頃、この地車は、岸和田の町から忽然とその優美な姿を消してしまったのだそうです。以来、古老たちはこれを惜しみ、この地車の事を話し合い、これを口伝えてきたのです。このような歴史から、「まぼろしの地車」と呼んでいたというわけです。
「長滝中の番の四ツ屋根地車の由緒」制作年: 文久2年(1862) 岸和田の名匠・梶 治三郎重忠 作地車の名称:四ツ屋根(四方軒唐破風上下動式)購入時期:明治23年(1890)岸和田大工町より購入発見時期:昭和48年〜49年復元修理:昭和56年
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