<近世つづき>
近世の長滝村は、稲作農業が主産業であり、水の確保が重要な課題でありました。「ユ」とよばれる村内の湧水が利用されたほか、ため池が築造されて灌漑に活用されていました。
文禄3年(1594)太閤政権時代のクモツ(菰津)池、慶長5年(1600)植田池、貝の池、寛永3年(1626)沢井家など、長滝の主要なため池は、近世のはじめ、いずれも領主や、幕府の公儀普請でつくられています。しかし、こうした勧農政策にもかかわらず、いったん日照りが続くと、水不足は、深刻な問題となり、周辺村々の間で、水争いが繰り返されたそうです。
蟻通神社は、慶長年間に再建されましたが、ため池の普請責任者は築造成就を祈願し、成就した後に、石燈籠を奉献され、本殿の近くに現存しています。この燈籠については、いつか紹介させていただきます。 蟻通神社は、江戸時代には、雨乞いの神として、村人が幾度も雨乞い祈願されたという記録が「長滝古記」に記されています。 寛永8年(1631)の旱魃時には、周辺の村々が祈って霊験があったため、鳥居を奉納されたそうです。
参考文献:「長滝の民俗」泉佐野市史編さん委員会
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郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月20日 |
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