<近世>
長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新期まで岸和田藩岡部氏の領する所でありました。 江戸時代初頭は、まだ長滝庄(荘)と呼ばれていたようですが、寛文ごろより長滝村と呼ばれるようになります。 長滝村は、3つの番に分けられ、それぞれの番に庄屋・年寄が置かれていました。「長滝古記」によりますと、信長の時代に庄屋が仰せつけられましたが、村の有力者は、皆、庄屋になることを嫌がり、結局「宮ノ前形部」という者に一代庄屋を命じられたといいます。 その後、秀頼の時代に、代官3人を「中番」、「西番」、「東番」と分けておき、以後この3つの番に庄屋3人を配置したものといわれます。 行政的には、長滝全体が一村されたのですが、それぞれの番に村役人を必要とするほどの広域な村であって、各番の自律性も強いものがあったとみられています。 |
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月17日 |
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