<平安時代>
平安時代後期に入ると、長滝の地は、荘園となり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっている。
長滝荘は、包富名(かねとみみょう)、弥富名(やとみみょう)にわかれ、その近くには、別に禅興寺の寺領がありました。
禅興寺は最盛時は、僧80人余り、寺領900石と称した大きな寺であったらしく、長滝の永福寺には、かつて禅興寺のものだったという仏像も伝わっています。この包富名、弥富名、禅興寺領の3地域が、後の西の番、中の番、東の番の起源と見られています。
中世後期には、荘園内部に名主層の惣結合が生まれるが、荘園領主はそうした惣仲間の有力者を番頭に任じ、この番頭に給田を与えるとともに、番頭を通じて年貢の徴収や支配をおこなっていました。いわゆる番頭制荘園でありますが、長滝荘にも3人の番頭が存在していて、これが3つの「番」の直接的始源であるそうです。 |
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月08日 |
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