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蟻通神社ブログ

能舞台についての続き
<能舞台は、全国各地にあります。>

 現在、室内で演じられる能楽堂が日本各地にあります。能楽堂という形式は、明治以降にできたもので、それ以前は能舞台は、野外にあったそうです。
 現在最古の京都西本願寺の北能舞台(天正9年・1581)や海に浮かぶ厳島神社の能舞台、靖国神社の能舞台等にその面影を見ることができます。

 正式の能舞台を用いない上演も多く、特に寺社との結びつきによる奉納に際してや野外能の上演が各地で行われています。
 
 お能は、室町時代に完成された舞台芸術で、そのむかしは、、「猿楽」または、「申楽」といって、平安時代ごろから行われた民俗芸能でした。室町時代にいたって、当時流行していたほかの舞踊や流行歌を取り入れ、観阿弥と世阿弥父子によってひとつの芸術に集大成されました。

 その世阿弥の著書の中で、お能は、本来神さまのものだ、という意味のことが書かれているそうです。今でも、日本各地の神社で、神話を題材にした「神楽」がおこなわれていて、むかしの人びとは、それを現実のものとして受け止めていたそうです。

 神楽は、人々に見せるも為のものではなく、神さまが現れて人びとに祝福を与え、平和を祈り、五穀豊穣を約束するという意味合いをもつ民俗芸能でした。神さまに扮する人は、禊ぎをおこなって、身心を淨め、敬虔な気持ちで舞台へのぼりました。

 お能の場合は、、「翁」がそれにあたり、長寿と幸福を象徴する神さまで「神楽(かみがく)」という舞をかなでます。能に造詣の深い随筆家の白洲正子さんの著書に、「翁」がお能の本質で、原形であると書かれています。人間が神さまに扮して、祝福を与えることに起こった儀式が、しだいに人びとに見せる芸能に発展していったのが、お能の生い立ちであり、歴史でもあるということだそうです。

 江戸時代、蟻通神社に能舞台が寄進されたのは、世阿弥作の能「蟻通」がひろまったからだと思われます。しかし、それ以前から村人により氏神の前で祭礼の芸能が奉納された、という記録が残されています。都から遠く離れた土地なのに、村人が氏神さまの前で、演じ、奉納するというお能の原形が行われていたことには、感慨深いものがあります。

 4年前から、観世流生一一門の先生方が、能公演の前に神社の能舞台で、能楽をご奉納下さっていますが、蟻通神社の神さまは、さどよろこんでいらっしゃるだろうと思っています。

参考文献:「能の物語」 白洲正子・講談社
       「能観賞二百一番」金子直樹・淡交社
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月20日



蟻通神社の能舞台について
<江戸時代に建立された能舞台>

 平安時代後期に、長滝は、長滝荘という荘園になり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっています。

 宮内庁に所蔵される鎌倉時代の末期の荘園絵図には、熊野街道近くに杜に囲まれ「穴通(あなとおし)」と記されいます。この時代から室町時代の荘園には、自治的な村(惣村)が成立し、神社は、村人が結集し、加護をうける重要な場所となっていました。

 中世末になると根来寺の勢力圏に入ります。長滝荘は、鎌倉武士の木戸(山内)氏が押領として、在地の軍事・警察権を握っていましたが、永正6年(1509)根来寺衆徒長、長滝荘惣分代官、蟻通明神・大井関明神の目代を根来寺から任命されています。

 戦国時代、石山本願寺と結び付いた紀伊雑賀衆・根来寺が織田・豊臣政権と対立し、根来寺の勢力圏にあった長滝の禅興寺、蟻通神社もこの時期戦火をまぬがれずに天正5年(1577)消失してしまいます。

 隣の日根荘領主九条政基(1501年〜三年間滞在)の日記に村人の盂蘭盆会の風流や祭礼の猿楽の様子に驚嘆したことが書かれています。鎮守の神の神意をなぐさめ、村人が演じ観賞する芸能が普及し、京の都から遠く離れた土地であるのに、農民の中に能者がいたことがわかります。

 神社焼失後、慶長17年(1612)に神社は再建され、和歌や能楽、雨乞いの神社として広まります。古書に、元和6年(1620)ご再興の儀でお能が奉納されたと書かれています。能舞台の建立は、寛永5年(1628)にされ、それまでは、お能の時、岸和田より舞台船にてまいり、組み立てて行われたそうです。

 長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新まで岸和田藩主岡部氏の領するところでありました。大阪夏の陣での再度の焼失後、万治3年(1660)年に岸和田藩主岡部宣勝候により再興されました。能舞台もその時再建されたのであろうと思われます。

参考文献:「長滝古記」
       「長滝の民俗」


●移転前の能舞台(舞殿)です。

能舞台.jpg

おそらく、昭和初期に撮影されたと思われます。
昔は、茅葺きの屋根でした。
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月19日



能「蟻通」の続き
<紀貫之が冠を落としたとされる冠之淵について>


 世阿弥作の「蟻通」では、紀州の玉津嶋神社に参詣に行く途中に蟻通神社の前を通りかかったという設定ですが、『貫之集』では、「紀の国に下りて、帰り上りし道にて、・・・・・」とあり、京に帰る途中に通りかかったと出ています。どちらが真実なのかは、分かりませんが、お能の方は、演出を考えて行く途中に設定したのかもしれません。
『貫之集806』 に蟻通の歌が載っていますので、紀貫之が蟻通神社前を通りかかって、歌を詠んだのは、確かだと思われます。
貫之集に記載されている歌は、蟻通の謡曲に出てくる歌と、少し異なっています。以下に記します。

 「 かきくもり  あやめも知らぬ  大空に
   ありとほしをば  思うべしやは」

(訳)かき曇り、ものの区別もつかぬ闇のような大空に、星があるなどと思うはずがあろうか。

「ありとほしをば」には、「ありと星をば」すなわち「星をば大空にありと思ふべしやは」の意と、「蟻通(の神)をば」の意とを掛けた掛詞で、
闇空に星があるとは思えないということと同時に、こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない。の意を表します。

 住吉大社や玉津嶋神社ほど著名ではない路傍の神が、歌聖・紀貫之の歌を手向けて欲しさに怪異を起こしたのではと考えると蟻通の神は、むしろ人なつかしい神威といえるでしょうと書いて下さる先生もいらっしゃいます。

 本殿が熊野街道に背を向けているのは、物咎めをする神として有名で往還の旅人に神祟があるので、後世の人がうしろむきにして、表と裏の両方に鳥居を作ったといわれています。
 
 紀貫之の馬が神威に触れよろめいた時、貫之が冠を傍らの渕(わき水の小池)に落としたとして「冠之渕」と名付けました。

 寛政年間には、幕府による渕の改修が行われ、中ノ島の上に「紀貫之大人冠之渕」と彫られた花崗岩の碑が立てられました。移転先の現在地には、元の姿を復元したものが整備されています。

参考文献
国立能楽堂H・22年7月パンフレットより
  樋野修司先生(泉佐野の歴史と今を知る会)
  村上たたう先生(蟻通の観賞の手引)
能の見どころ (東京美術)
   村上たたう先生   
貫之集(新潮日本古典集成)
   

移転前の冠之渕の写真が出てきました。


冠が渕.jpg

おそらく、昭和5年頃と思われます。
モノクロで分かりにくいのですが、
写っているのは、先代の宮司です。


P1160104.jpg

現在の冠之渕です。
写っているのは、現宮司です
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月17日



能「蟻通」のストーリー
<5月3日に神社の舞殿で能楽等が奉納されます。>

●能 『蟻通』 について

●作者  『猿楽談儀』に「蟻通  世子作」とあるので世阿弥作と考えられます。

●人物 ワキ    紀貫之
     ワキツレ  従者
     シテ    宮守

●能柄 四番目物
●典拠 貫之集
●場所 和泉国  蟻通神社


●ストーリー
 和歌の名手・紀貫之は、和歌の心の体得を目指して歩む者として、和歌の守り神である紀伊国・玉津嶋神社への参詣を志します。その道中、にわかに日が暮れ、大雨が降り、その上、乗っている馬までが倒れ伏して、どうにもなすすべもなく途方に暮れていました。
 
 そこに傘をさして松明を持った年老いた宮守が現れます。神前の灯火が消えているのを見咎めた宮守は、ここは、蟻通明神の社前であると告げ、「雨夜の暗黒で知らぬこととはいえ、乗馬のまま通り過ぎようとした非礼が祟ったのだ」とときます。宮守は相手が貫之であることを知り、神に対して、和歌を奉納し、詫びるとよいと勧め、歌の徳を説きます。

 そこで貫之は、心をこめて
「雨雲の立ち重なれる夜半なれば、蟻通とも思ふべきかは。」
と詠みます。
 宮守は、その歌に感じ入り、歌のめでたいいわれが述べられ、宮守が馬を引き立ててみると、馬は起き上がり、いななきました。和歌が神慮に通じたのです。

 貫之は宮守に祝詞を奏上することを頼みます。求めに応じ報恩の祝詞を捧げ、神楽が舞われます。宮守は実は、蟻通明神の化身であり、貫之の和歌に感じて出現したことを告げて、姿を消します。昇天する神霊を見送った貫之は、喜びの心でなおも神楽を奏し、夜が明けると再び旅の空に立つ身となりました。


●見どころ
 雨中、傘をさし、松明を手に登場する老人。印象的な扮装です。この傘と松明の小道具で、雨の降りそそぐ夜の闇の中に松明の火に社殿が浮かび上がる情景を描き出す演出を、能に趣を添える例として、世阿弥が語っているそうです。
 傘をさして出る能は、宝生・喜多流の特殊演出の「邯鄲」を除けば「蟻通」のみだそうです。貫之は、ワキ方屈指の大役で、ワキが活躍する作風は、世阿弥時代にはあまり例がなく、珍しいのだそうです。
ワキの活躍に対し、シテは、所作も少なく、神々しい趣を主眼としていて、渋くて皮肉な味わいを持った心持の多い能となっています。

●参考文献
国立能楽堂H・22年7月「蟻通」公演パンフレット
小学館日本古典文学全集 「謡曲集」
淡交社発行 「能観賞二百一番」



 
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月16日



5月3日蟻通神社にて「能楽」ご奉納について
<能楽・独鼓 蟻通神社でのご奉納のお知らせ>

 泉佐野市指定文化財・ふるさと町屋館の旧新川家住宅の中庭で、5月3日にろうそく能が開催されます。
 その公演に先立ちまして、世阿弥 作『蟻通』 にゆかりのある蟻通神社舞殿において、謡と独鼓・仕舞等のご奉納があります。
 
 ろうそく能の公演は、今年で4回目を迎えられますが、公演の前に毎年、神社にご奉納下さっています。

 神社の本殿に向かって、神様に能楽をご奉納されるお姿は、なかなかお目にすることは少ないと思います。
 
 神社の境内からご自由に観て頂けますので、ご興味のある方は、お気軽にお越しくださいませ。

以下は、蟻通神社舞殿でのご奉納の詳細です。


出 演  観世流 生一(きいち)一門の方々


と き   5月3日(火・祝) 午後2時30分

ところ   泉佐野市長滝814 
         TEL 072−465−0897
       蟻通神社  舞殿

入場料  無 料

奉 納  独鼓 「蟻 通」
           山中 雅志
           上田 慎也
     
      独吟 「嵐 山」
           姫野 古佳
     
      仕舞 「老 松」
           山中 雅志
           川村 靖彦
          
          「草子洗小町」
           國枝 良雄
           川村 靖彦

  前回のご奉納の様子です。 
 P5030501.jpg

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能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月14日



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