蟻通神社ブログ
ひな祭りについて その2
<男びなと女びなの並び方> 皇室では、伝統的に天皇様が向かって右に立っていましたが、西洋の方式が入ってくると、向かって左に天皇様、右に皇后様が立つようになられました。
それにならって、向かって左に男びな、向かって右に女びなを飾るということになったそうです。古来の伝統が残る関西では、向かって右に男びな、左に女びなを飾る風習が残っているそうです。必ずこうしなければならないというものではなく、各家庭のしきたりで、飾ればよいようです。
幼いころに、童謡の「うれしいひなまつり」をよく歌いました。その中の歌詞に、「お内裏様とお雛様」と出てきますが、本来は、男びなは、「お殿様」、女びなは、「お姫様」と呼ぶのだそうです。
ひな祭りは、平安時代の「上巳の祓」や「ひいな遊び」が一体となり、やがてひな祭り(桃の節句)として日本の季節を味わう行事として、長く伝承されてきました。
現代では、神事としての意味は薄れましたが、私たちの生活に、季節を感じさせてくれ、潤いや楽しみを与えてくれるものなのだなと思います。 参考文献:朝日新聞・日本人形協会の記事
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年02月22日
雛祭りについて
<三月三日は、ひな祭りです。> 正式には、上巳(じょうし)の節句といい、五節句の一つです。上巳とは、「旧暦三月の上旬の巳の日」のことであります。 古来中国では、この日、川で身を清め、不浄を祓う招魂の行事が行われていたそうです。これが平安時代にとりいれられ、宮中では、曲水の宴を張り、祓を行うようになりました。 やがて、曲水の宴は、すたれましたが、上巳は巳の日の祓として貴族の間に定着していきました。これを「上巳の祓」として陰陽師に祓をさせ、人形で身体をなでて、これを川に流す行事が貴族を中心に行われていました。
このような人形を川に流す習慣は、現在、各地で流し雛として残っています。 上巳の祓は、江戸時代以降ひな祭りとして、急速に庶民の間にも広まり、やがて飾られる人形も数が増え、華やかになり、女子の健やかな成長を願う祭が、にぎやかに行われるようになりました。
40数年前の雛飾り
私が生まれた時に、亡き祖父が買ってくれた雛人形が、40年ぶりに倉庫から出てきました。
豪華なものではないですが、こんなお人形を買ってくれていたのを、大人になって知って、いまさらですが 、孫が生まれてきたことを喜んでくれたのだなと、うれしく思いました。
(念願の男の孫ではなかったので、がっかりしたそうですが)
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年02月22日
<今年は、まだまだ、寒いですね>
<2月14日の大雪にびっくり!>
あれで、大雪 というと雪国の方に、叱られるかもしれませんね。でも、このあたりでは、お昼間にあんなに積もることは、私の四十ン年間の人生の中でも、記憶にないのです。(きちんと調べたわけでは、ありません。すみません) 夕方の帰宅ラッシュで、道路は、大混雑でした。私が、いつもは20分で自宅まで帰る道程が70分もかかったり、羽倉崎から阪南市の海側まで、5時間かかったり、泉佐野市から和歌山まで夕方出て、夜中になったなどという大変な一日でした。世間では、バレンタインデーだったのに、それどころでは、ないなあーという日でした。 皆様、お疲れ様でした。 自然の前では、人間の力は、小さいものなんだなと改めて思いました。 「神社神道について」 神道は、仏教やキリスト教のように特定の創唱者を持っていません。 日本において、民族の形成過程で自然発生的に形成された宗教です。八百万の神々といわれるように山のカミ、川のカミ、海のカミなど自然の中のあちこちに神が潜んでいます。 古代の人々は、自然の脅威というものを今の私たちよりももっと痛切に感じていたのかも知れないです。 神道は、人々の暮らしと日常的に密接にかかわってきて、いろいろな宗教や文化の影響を受け、変容の歴史を重ねて、現在の私たちの暮らし習俗・習慣の中にも親密に溶け込んでいます。
だから、神社神道は、あまりにも身近すぎて、宗教と感じられることが少ないのです。
しかし、国際化、グローバル化が進んだ現代の社会の人々に、もっと神社神道の宗教文化を、理解していただいて、信仰を深めて頂く様に神職の私たちが、勉強して、努力しないといけないと思っています。
今年、2度目の積雪
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年02月16日