蟻通神社ブログ
長滝の歴史・その4
<中世後期> 宮内庁書陵部に保存されている古文書の中に、鎌倉時代後期の正和5年(1316)に作成された日根野村絵図があります。日根野村の原野の開発許可をうけるために作られたものらしいですが、この中に、長滝荘・禅興寺・穴通も描かれています。
禅興寺は、大門、講堂、三重塔、本堂などが塀に囲まれている絵で、大規模な寺院であったことがわかります。長滝荘の松林の中にお社と鳥居が描かれ、そこに「穴通」と書き込まれています。これは、「蟻通」を聞き違えて誤記したものではないかとされています。
蟻通神社には、現在も宮座が存在いたします。この宮座は、中世に荘園ができ、惣が形成された時代に生まれたものとみられていますが、同宮座のことを記す最も古い史料は寛永年間のものであり、確たることはわからないそうです。
中世末になると、泉南は紀伊国根来寺の勢力圏に入ります。長滝荘は、鎌倉武士の木戸(山内)氏が押領として在地の軍事・警察権を握っていましたが、同氏は永正6年、根来寺衆徒長、長滝荘惣分代官、蟻通明神・大井関明神の目代を根来寺から任命されています。現在、中の番にある中の宮神社は、この山内氏の氏神であったと伝えられています。
織豊政権期には、石山本願寺と結びついた紀伊雑賀衆・根来寺が、織田・豊臣政権と対立します。このため、根来寺の勢力下にあった長滝の禅興寺および蟻通神社もこの時期戦火をまぬがれず、焼失してしまいます。長滝の地蔵堂は、廃禅興寺の敷地内に残った古碑や石仏を後に1ヶ所にあつめ、堂宇を建立して祀ったものとされています。堂宇の周辺には、善興寺、寺前川、大門などの地名もあり、蓮華紋瓦も出土しているそうです。
参考文献:長滝の民俗 蟻通神社と長滝
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月08日
長滝の歴史・その3
<平安時代>
平安時代後期に入ると、長滝の地は、荘園となり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっている。
長滝荘は、包富名(かねとみみょう)、弥富名(やとみみょう)にわかれ、その近くには、別に禅興寺の寺領がありました。
禅興寺は最盛時は、僧80人余り、寺領900石と称した大きな寺であったらしく、長滝の永福寺には、かつて禅興寺のものだったという仏像も伝わっています。この包富名、弥富名、禅興寺領の3地域が、後の西の番、中の番、東の番の起源と見られています。
中世後期には、荘園内部に名主層の惣結合が生まれるが、荘園領主はそうした惣仲間の有力者を番頭に任じ、この番頭に給田を与えるとともに、番頭を通じて年貢の徴収や支配をおこなっていました。いわゆる番頭制荘園でありますが、長滝荘にも3人の番頭が存在していて、これが3つの「番」の直接的始源であるそうです。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月08日