蟻通神社ブログ
オリジナル絵馬「紀貫之の装束」について
<装束についてのつづき> 先日、紹介させていただいた、当神社のオリジナル絵馬は、蟻通神社に縁のある「紀貫之」です 紀貫之の生没年は、不明なのですが、およそ 生:872年〜没:946年頃とされています。
平安時代は、794年の平安遷都から1192年鎌倉幕府成立までのおよそ400年間の時期とされています。 平安時代は、律令政治の再建をはかるため、桓武天皇が寺院など旧勢力の強い奈良を離れ、長岡京へ移り、ついで京都に平安京を造営して政治改革に取り組み、官制や法制が整備されていきました。
紀貫之は、正に平安時代を代表する王朝の歌人です。この時代は、遣唐使が廃止されてから、新しい日本の文化が芽生え始め、藤原氏を中心とした貴族たちによって、国風文化が誕生しました。 貴族社会では、娘たちを教養高く育てることに力がそそがれ、皇后や中宮、女房たちで構成される後宮は、才媛たちの集う文化サロンで、王朝の文化の発展に大きな力を持っていました。
この王朝の高度な貴族文化の元になったのが、日本の風土にあった、より細やかな心の表現ができるようにした「かな文字」の成立です。 漢詩に代わって三十一文字の和歌が盛んに詠まれるようになりました。 かな文字は、国文学発達の原動力となり、紀貫之は『土佐日記』を書き、醍醐天皇の命により勅撰和歌集『古今和歌集』を編修しました。男性の立場から、かな文字の発展に寄与しました。また女性による文学の傑作として、清少納言『枕草子』 ・紫式部『源氏物語』 はあまりにも有名です。
紀貫之は、官吏としてはあまり恵まれていなかったようで、最終的な位階は、従五位上だったそうです。 当時の平安貴族の正装が、束帯(そくたい)で、位階によって色が定められていました。原作者の画家中島先生が調べて下さって、絵馬の紀貫之の装束を深緋色に塗って下さいました。
【 装束がこの色なのは、理由がありました。】原画です。本当は、白馬を書いて下さったのですが、絵馬では、馬の白い色を出すことができず、大変残念でした。
参考文献:「日本の色事典」吉岡幸雄著 紫紅社 「装束と衣紋」八束清貫著 神社本庁刊
「日本史図録」山川出版社
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月01日
神職の装束(しょうぞく)について
<祭祀に着用する服装には、きちんとした規定があります。>
古く、男子服は、「袈裟式」といって、一枚の裂地を左肩から懸けて、右腋下で両端を結び合わせたものです。女子服は、「貫頭衣」といって、これも一枚の裂地を、その真中で穴をあけその穴に首を入れて、前後に垂れたものであったそうです。今も最上衣として原形をとどめているのは、小忌衣(おみごろも)・ちはや・うちかけです。男女ともに一枚の裂地から進化して、上衣・下衣の二つのものとなりました。男子は、「衣(きぬ)」「袴(はかま)」で女子は、「衣(きぬ)」「裳(も)」であります。
推古の朝に、始めて大小六種(徳・仁・礼・信・義・智)十二階の冠制が定められ、その後文武天皇の大宝令で冠服の制度が確立されました。男子服は束帯・衣冠の類で、女子服は、五衣・唐衣・裳・うちき・袴の類です。
この冠服の制は中国の模倣でしたが、遣唐使が廃止されてから平安中期以降、日本独自の装束が発達し、明治維新までつづきました。明治になって、大宝令の礼服は、全廃され、束帯衣冠以下の装束は、祭祀専用の儀服となり、その後、朝廷の儀服は洋服制を採用されました。
現在、神社で用いる装束は、男子は衣冠単・斎服・狩衣・淨衣の4種類で、女子は、うちき・袴と水干の2種類です。 それぞれ、祭祀の種類によって、着装するものが定められています。また、色や布地・紋などは、神職の身分、階級によって決まりがあります。
皆様が、初宮詣でや厄除け祈願、家内安全、交通安全等のご祈祷に神社にお参りに来られたときに、目にされている装束は、男子では、狩衣(かりぎぬ)といいます。 はかまは、一番下の階級から順に浅黄(水色)・紫・紫に紋・紫に白い紋・白に白い紋という決まりがあります。いろいろな神社にご参拝されたときに、袴の色にも注目なさってみてください。
私が神職の資格を頂いて、初めて正式に祭祀用の装束を着けた時は、大変うれしくて、身が引き締まる思いがしたのを覚えています。
【下の写真が、狩衣で、袴は、紫の無地です。】
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月31日
今日は、暖かかったですね。
<ようやく、春らしくなってきました> 日差しが暖かく感じられ、気持ちの良い日でした。 神社の境内の植物もやっと春の兆しが現れてきました。
少し膨らんだ桜のつぼみ
例年より遅いような・・・。
さんしゅゆの木
生け花でよく使います。
白椿
何だと思いますか
三椏(みつまた)の木です。(和紙の原料)
見づらいですが、枝が三つに分かれています。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年03月29日
三月二十日敬老社人 入座式
<社人とは?> 往古から本社には、社人といって21人の氏子さんの年長男子が大紋直垂を着流し、毎年旧正月に神前に参集して御座と称し、直会物を拝戴する儀式がありました。氏子さんに男子が生まれると、初宮詣をなして座入りをしますが、これが将来21人の社人の候補となりました。
この社人の組織の事を学術用語で「宮座」といい、神社の祭事に関わる村落内の特権的な祭祀集団のことです。宮座の運営は、年齢階梯に基づいて、長老を中心に行われるのがふつうでした。神社の祭にあたって、神事や行事の世話をする人や家を頭屋といい、その選出方法は、くじ引きや、年齢順や、家順など様々でした。通常は、一年交替で行われることから、「一年神主」などという言葉も本には、書かれています。
蟻通神社も私の先祖が宮司を任命されるまでは、宮座が神社を運営し、お守りして下さっていました。現在の社人さんは、その宮座の形が変化して続いているものです。毎年、古希を迎えられた氏子さんの男性の方々が、新しく入座されます。1年間の定例日に神社に参拝され、社人さん同士の親交を深められています。
【今年の入座式の様子です。】
平成23年の入座者の皆様とても70歳には、見えません。皆様お若いです。
先輩の社人の皆様へご挨拶をされている所 カメラに、 笑顔で答えて下さいました。
皆様で新入座者の方をお祝いします。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年03月28日
2週間ぶりにブログを更新致します。
<東北関東大震災> この度の、震災で被災された皆様方に心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興をお祈りいたします。
実際に大災害の苦難を経験していない私が、言える言葉は本当に何もなくて、ただ、義援金を募金させていただき、ニュースや新聞を通して、常に応援をしていますという気持ちを持ち続けることぐらいなのが心苦しいです。
被害に遭われた皆様に、普通の当たり前の日常が早く戻ってくることを願っております。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年03月28日