蟻通神社ブログ
四月十日は祈年祭が執り行われます。
<祈年祭(きねんさい)とは?>
このブログを入力しようとした途端、「宮城県沖で強い地震が発生した」とニュースが報じました。 被災地の方々にとっては、もういい加減にしてほしいと、本当に腹立たしいお気持ちだろうと思います。大きな被害のないことをお祈りいたします。
祈年祭とは、『としごいのまつり』 ともいいます。十一月の収穫感謝祭である新嘗祭(にいなめさい) と対になる形で、古くから重要な祭祀とされてきました。 二月十七日に五穀豊穣と国家安泰を神々に祈る祭りであり、宮中や伊勢の神宮をはじめ、全国各地の神社においておこなわれていました。 奈良朝以来の律令制下では、規定されている祭祀に際して、全国の神社(官社)に幣帛(へいはく)がお供えされていました。各神社では、それぞれの祭祀により幣帛の有無や、内容の差異がありましたが、特に祈年祭の場合に限り、重要な祭祀として、総ての官社に幣帛が捧げられています。平安時代中期成立の『延喜式神名帳』には、官社として2861社の神社が掲載されています。 延喜式には、祈年祭で供える幣帛の品目も挙げられており、布帛や、弓、楯、酒、干し肉、海藻などさまざまな奉献物が供えられていたようです。 また祭にあたり、厳重な物忌(斎戒)が求められており、大嘗祭を除き、最も重要な祭となっています。 その後、律令制の衰微や戦乱などにより、祈年祭の執行も大きな影響を受けましたが、明治初年の神祇官復興に至り、再び重要な祭祀として位置付けられています。
参考文献:「神道いろは」神社新報社
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年04月08日
桜が咲き始めました。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年04月05日
長滝子ども会の皆様の清掃奉仕
<今日、長滝子ども会の皆様が境内をお掃除して下さいました> 昨日とは、うって変わって冬に戻ったかのような寒い一日でした。 日曜日の早朝から長滝中・西・東の番の子ども会の役員さんや子どもさんが広い境内のあちらこちらを一生懸命お掃除して下さいました。 一人より二人、二人より三人と、人の力というのはありがたいですね。落ち葉や草やゴミがなくなって、すっかりきれいになりました。 皆様寒い中、本当にありがとうございました。


末社・摂社さんの前
蔵の前
北の参道
社務所の裏です。
本殿の中です。

本殿の裏側です。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年04月03日
「震災どう乗り越える」3月29日春日武彦先生の読売新聞記事
<哀しみと不安を抱えながらの新学期となりました。>
例年なら桜の開花を待ち望み、希望と喜びに溢れた春なのに、今年は日本の誰もが、心から喜びをあらわせない春です。 震災から3週間が経とうとしていますが、依然行方不明の方々の数は少なくなっていきませんし、原発の問題もいつ終わりが来るのだろうという毎日です。 被災された方々がこの困難を克服されるのは、本当に大変なことだと思います。また、災害復興の支援に携わっている方々には、頭が下がる思いです。 大阪に住む私自身は、お力になれることは少なく、ただ災害の報道を見ることしかできないのに、気持ちも沈みがちです。そういう気持ちで過ごす人々に、どう考えていったらいいのか教えてくれる新聞のコラムがありました。一部省略して、抜粋させて頂きます。 震災どう乗り越える
『この鬱々と重苦しい毎日を、いきなり晴れ渡った気分で満たす方策はない。だが、うな垂れる必要もない。被災地から隔たった場所に住む人間は、誠実さや活力が他人へ伝搬し得るという事実を思い出そう。 他人を思いやることと、過剰な自主規制や自粛とは直結しない。被害を受けずに済んだ者が何かを楽しんでも、それが「不謹慎」ということになってしまえば心は萎縮しかねない。他人の顔色を窺うような態度は、誰も救えない。
被災者の存在を胸の内に置きつつ、背筋を伸ばして日常を営んでいくことが大切だろう。』
3月29日(火)読売新聞朝刊:春日武彦先生の記事より
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月02日
オリジナル絵馬「紀貫之の装束」について
<装束についてのつづき> 先日、紹介させていただいた、当神社のオリジナル絵馬は、蟻通神社に縁のある「紀貫之」です 紀貫之の生没年は、不明なのですが、およそ 生:872年〜没:946年頃とされています。
平安時代は、794年の平安遷都から1192年鎌倉幕府成立までのおよそ400年間の時期とされています。 平安時代は、律令政治の再建をはかるため、桓武天皇が寺院など旧勢力の強い奈良を離れ、長岡京へ移り、ついで京都に平安京を造営して政治改革に取り組み、官制や法制が整備されていきました。
紀貫之は、正に平安時代を代表する王朝の歌人です。この時代は、遣唐使が廃止されてから、新しい日本の文化が芽生え始め、藤原氏を中心とした貴族たちによって、国風文化が誕生しました。 貴族社会では、娘たちを教養高く育てることに力がそそがれ、皇后や中宮、女房たちで構成される後宮は、才媛たちの集う文化サロンで、王朝の文化の発展に大きな力を持っていました。
この王朝の高度な貴族文化の元になったのが、日本の風土にあった、より細やかな心の表現ができるようにした「かな文字」の成立です。 漢詩に代わって三十一文字の和歌が盛んに詠まれるようになりました。 かな文字は、国文学発達の原動力となり、紀貫之は『土佐日記』を書き、醍醐天皇の命により勅撰和歌集『古今和歌集』を編修しました。男性の立場から、かな文字の発展に寄与しました。また女性による文学の傑作として、清少納言『枕草子』 ・紫式部『源氏物語』 はあまりにも有名です。
紀貫之は、官吏としてはあまり恵まれていなかったようで、最終的な位階は、従五位上だったそうです。 当時の平安貴族の正装が、束帯(そくたい)で、位階によって色が定められていました。原作者の画家中島先生が調べて下さって、絵馬の紀貫之の装束を深緋色に塗って下さいました。
【 装束がこの色なのは、理由がありました。】
原画です。本当は、白馬を書いて下さったのですが、絵馬では、馬の白い色を出すことができず、大変残念でした。
参考文献:「日本の色事典」吉岡幸雄著 紫紅社 「装束と衣紋」八束清貫著 神社本庁刊
「日本史図録」山川出版社
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月01日