蟻通神社ブログ
「新任神職諸君!」の記事について
<神社新報の新聞記事のお話> 「青年神職よ!オールマイティプレーヤーたれ!」
にとても共感しました。
世の中には、一般紙のほかに、いろいろな業界の新聞が発行されています。神社神道の新聞に、神社新報(発行:神社新報社)があります。
宮司や私たち家族も愛読させて頂いております。その紙面の中には、全国各地の神社の情報や講習会や研修のことや、神職の心得や神社にまつわるいろいろなことが掲載されています。 その中に、先輩の神職の方々のご奉仕の様子や、後輩神職へのアドバイスについて書かれた記事等は、いつも勉強になります。
先日、新任神職への提言の記事がありました。神職の資格を頂いてすぐ一人前の神職ではなく、しっかりとした実践を重ね、自己研鑽を重ね多くの知識を備えることが大切であると書かれています。 とくに家族で維持する多くの民社・村社の神職は、オールマイティプレーヤーでなければならないとおっしゃっています。例えば、自社の歴史のこと・境内の樹木のこと・清掃のこと・社殿の建物の修繕方法・地域やご参拝の方々とお話しすること、などなどです。
宮司を務めるということは、本当に重責なのだなと思います。当社も神社役員さんにお世話になりながら、家族総動員でご奉仕をさせて頂いています。
宮司が、若くて元気な頃は、建物を修理したり、ペンキをぬったり、植木を栽ったり、授与品の製作など自分でできることは、工夫をして取り組んでいました。
宮司がよく言うのは、「人から教えてもらう間は物事を覚えようとしない。自分で工夫をし、考えて、実行して始めて一人前になる。」です。 今までは、宮司に頼ることが多く、資格をいただいてから随分立ちますが、私は、未だに新任神職のままだなと実感しています。
この記事を読んで、遅ればせながらいろいろなことを地道に学んでいこうと思い直しました。
『平成二三年三月二十八日の神社新報 山下 裕嗣先生の記事より』
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月29日
境内の説明立て札について
<神社の役員さんが、手作りの立て札をたくさん作って下さいました。>
ずっと以前から、各地の寺社でよく見られる、由緒が書かれた案内の立て札があればよいのになと考えていました。市販のものは、かなり高価で、なかなか何本も購入することが難しいので、諦めておりました。
その長年の思いが通じたのだと勝手に思っているのですが、今年、神社役員の方が、手作りで、駒札型の立派な立て札を十数本、製作して下さいました。 板の文字は、宮司が書き込みました。まだ、数か所だけなのですが、設置していただきましたので、ご参拝の折に、ご覧になって下さいませ。 木製のきれいな板の立て札を作っていただいて、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
大きな寺社ではないので、なるべく予算がかからないようにと、神社役員の皆様がご自分たちのお仕事の合間をぬって、いつも様々なことをして下さいます。
例えば、木の伐採、消毒、除草剤の散布、ペンキ塗り、竹灯篭作り、しめ縄作り、神社の建物の修繕、などなどです。(まだまだありますが、)
昔から代々の神社の役員さん方が、受け継いで、ご奉仕をして下さったおかげで、戦争での移転後も神社が存続でき、整備されてきたということを、忘れてはいけないなと思っています。
「弁財天社」
「足神神社」
「仏足石」
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月25日
能舞台についての続き
<能舞台は、全国各地にあります。>
現在、室内で演じられる能楽堂が日本各地にあります。能楽堂という形式は、明治以降にできたもので、それ以前は能舞台は、野外にあったそうです。 現在最古の京都西本願寺の北能舞台(天正9年・1581)や海に浮かぶ厳島神社の能舞台、靖国神社の能舞台等にその面影を見ることができます。
正式の能舞台を用いない上演も多く、特に寺社との結びつきによる奉納に際してや野外能の上演が各地で行われています。 お能は、室町時代に完成された舞台芸術で、そのむかしは、、「猿楽」または、「申楽」といって、平安時代ごろから行われた民俗芸能でした。室町時代にいたって、当時流行していたほかの舞踊や流行歌を取り入れ、観阿弥と世阿弥父子によってひとつの芸術に集大成されました。
その世阿弥の著書の中で、お能は、本来神さまのものだ、という意味のことが書かれているそうです。今でも、日本各地の神社で、神話を題材にした「神楽」がおこなわれていて、むかしの人びとは、それを現実のものとして受け止めていたそうです。
神楽は、人々に見せるも為のものではなく、神さまが現れて人びとに祝福を与え、平和を祈り、五穀豊穣を約束するという意味合いをもつ民俗芸能でした。神さまに扮する人は、禊ぎをおこなって、身心を淨め、敬虔な気持ちで舞台へのぼりました。
お能の場合は、、「翁」がそれにあたり、長寿と幸福を象徴する神さまで「神楽(かみがく)」という舞をかなでます。能に造詣の深い随筆家の白洲正子さんの著書に、「翁」がお能の本質で、原形であると書かれています。人間が神さまに扮して、祝福を与えることに起こった儀式が、しだいに人びとに見せる芸能に発展していったのが、お能の生い立ちであり、歴史でもあるということだそうです。
江戸時代、蟻通神社に能舞台が寄進されたのは、世阿弥作の能「蟻通」がひろまったからだと思われます。しかし、それ以前から村人により氏神の前で祭礼の芸能が奉納された、という記録が残されています。都から遠く離れた土地なのに、村人が氏神さまの前で、演じ、奉納するというお能の原形が行われていたことには、感慨深いものがあります。
4年前から、観世流生一一門の先生方が、能公演の前に神社の能舞台で、能楽をご奉納下さっていますが、蟻通神社の神さまは、さどよろこんでいらっしゃるだろうと思っています。
参考文献:「能の物語」 白洲正子・講談社 「能観賞二百一番」金子直樹・淡交社
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月20日
蟻通神社の能舞台について
<江戸時代に建立された能舞台>
平安時代後期に、長滝は、長滝荘という荘園になり、上東門院(藤原彰子)、東北院(三条天皇中宮)などの手を経て、藤原氏の采地になっています。
宮内庁に所蔵される鎌倉時代の末期の荘園絵図には、熊野街道近くに杜に囲まれ「穴通(あなとおし)」と記されいます。この時代から室町時代の荘園には、自治的な村(惣村)が成立し、神社は、村人が結集し、加護をうける重要な場所となっていました。
中世末になると根来寺の勢力圏に入ります。長滝荘は、鎌倉武士の木戸(山内)氏が押領として、在地の軍事・警察権を握っていましたが、永正6年(1509)根来寺衆徒長、長滝荘惣分代官、蟻通明神・大井関明神の目代を根来寺から任命されています。
戦国時代、石山本願寺と結び付いた紀伊雑賀衆・根来寺が織田・豊臣政権と対立し、根来寺の勢力圏にあった長滝の禅興寺、蟻通神社もこの時期戦火をまぬがれずに天正5年(1577)消失してしまいます。
隣の日根荘領主九条政基(1501年〜三年間滞在)の日記に村人の盂蘭盆会の風流や祭礼の猿楽の様子に驚嘆したことが書かれています。鎮守の神の神意をなぐさめ、村人が演じ観賞する芸能が普及し、京の都から遠く離れた土地であるのに、農民の中に能者がいたことがわかります。
神社焼失後、慶長17年(1612)に神社は再建され、和歌や能楽、雨乞いの神社として広まります。古書に、元和6年(1620)ご再興の儀でお能が奉納されたと書かれています。能舞台の建立は、寛永5年(1628)にされ、それまでは、お能の時、岸和田より舞台船にてまいり、組み立てて行われたそうです。
長滝は、周辺諸村と同様、寛永17年(1640)から明治維新まで岸和田藩主岡部氏の領するところでありました。大阪夏の陣での再度の焼失後、万治3年(1660)年に岸和田藩主岡部宣勝候により再興されました。能舞台もその時再建されたのであろうと思われます。
参考文献:「長滝古記」 「長滝の民俗」
●移転前の能舞台(舞殿)です。
おそらく、昭和初期に撮影されたと思われます。昔は、茅葺きの屋根でした。
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月19日
能「蟻通」の続き
<紀貫之が冠を落としたとされる冠之淵について>
世阿弥作の「蟻通」では、紀州の玉津嶋神社に参詣に行く途中に蟻通神社の前を通りかかったという設定ですが、『貫之集』では、「紀の国に下りて、帰り上りし道にて、・・・・・」とあり、京に帰る途中に通りかかったと出ています。どちらが真実なのかは、分かりませんが、お能の方は、演出を考えて行く途中に設定したのかもしれません。
『貫之集806』 に蟻通の歌が載っていますので、紀貫之が蟻通神社前を通りかかって、歌を詠んだのは、確かだと思われます。
貫之集に記載されている歌は、蟻通の謡曲に出てくる歌と、少し異なっています。以下に記します。
「 かきくもり あやめも知らぬ 大空に
ありとほしをば 思うべしやは」
(訳)かき曇り、ものの区別もつかぬ闇のような大空に、星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「ありと星をば」すなわち「星をば大空にありと思ふべしやは」の意と、「蟻通(の神)をば」の意とを掛けた掛詞で、
闇空に星があるとは思えないということと同時に、こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない。の意を表します。
住吉大社や玉津嶋神社ほど著名ではない路傍の神が、歌聖・紀貫之の歌を手向けて欲しさに怪異を起こしたのではと考えると蟻通の神は、むしろ人なつかしい神威といえるでしょうと書いて下さる先生もいらっしゃいます。
本殿が熊野街道に背を向けているのは、物咎めをする神として有名で往還の旅人に神祟があるので、後世の人がうしろむきにして、表と裏の両方に鳥居を作ったといわれています。 紀貫之の馬が神威に触れよろめいた時、貫之が冠を傍らの渕(わき水の小池)に落としたとして「冠之渕」と名付けました。
寛政年間には、幕府による渕の改修が行われ、中ノ島の上に「紀貫之大人冠之渕」と彫られた花崗岩の碑が立てられました。移転先の現在地には、元の姿を復元したものが整備されています。
参考文献国立能楽堂H・22年7月パンフレットより 樋野修司先生(泉佐野の歴史と今を知る会) 村上たたう先生(蟻通の観賞の手引)能の見どころ (東京美術) 村上たたう先生 貫之集(新潮日本古典集成)
●移転前の冠之渕の写真が出てきました。
おそらく、昭和5年頃と思われます。モノクロで分かりにくいのですが、写っているのは、先代の宮司です。
現在の冠之渕です。写っているのは、現宮司です
能楽のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年04月17日