蟻通神社ブログ
蟻通神社の摂社・末社の続き
<現在、修復中です。>
智恵神社以外の四つのお社が、少々傷んでまいりましたので、只今修繕させて頂いております。ご参拝の皆様には、ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません。 現在の四社ある末社さんは、移転前の昭和10年1月に工事竣工されたものです。それより前のお社は、昭和9年9月21日の台風で被害にあって、破損したようです。そのときに境内の樹木もたくさん倒木したそうで、その木を使用して、現在の末社さんを建てて頂きました。
●移転前(旧社地)の四社の末社さん
生えている樹木が、今よりもはるかに背が高いのがわかります。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月06日
神社の摂社、末社について
<境内にある小さなお社>
摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)も本社に附属する神社ですが、現在では、特に両者を区別する規定はなく、本社の管理下にある小規模神社の呼称として用いられています。
戦前の旧官国弊社においては、摂社と末社を区別する基準が設けられました。 摂社に該当する条件として、まず、本社御祭神の荒御魂や后神・御子神を祀った社のほか、御祭神と関係のある神や地主神など特別な由緒がある社となっていました。
こうした基準に当てはまらないのが末社であり、摂社は、末社より上位に置かれていました。 現在でも摂社・末社の呼称は、戦前の基準による区分をそのまま用いていることがありますが、特に本社との由緒の深い神社には、摂社の呼称が用いられています。 摂社・末社については、本社と同一の境内地で祀られている境内社と、境内地外で祀られている境内外社といった区分もできます。
蟻通神社の境内地の東側に摂・末社が祀られています。本殿に近い方から、智恵神社・愛宕神社・多賀神社・住吉神社・和泉五社という順に並んでいます。また、太鼓橋を渡って本殿に近い方から、弁財天社・足神神社となっています。
境内にある摂・末社です。
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月06日
移転前の蟻通神社の様子
<旧郷社 蟻通神社史資料>
移転前の神社の様子を知る資料として、大阪府史蹟調査委員でいらっしゃった池田谷久吉先生が取りまとめて書いて下さった資料が残っています。
先代宮司の祖父の友人だったそうです。ちなみに祖父は、明治27年生まれです。昭和17年に、お願いをして書いていただいたようです。本当に詳細に書かれていて、貴重な資料となっています。私は、なかなか全ページを読みこなせていませんが、この資料をいつか復刻したいなと思っています。
池田谷先生が最後に書いて下さった文章を、一部省略して抜粋させて頂きます。
『蟻通神社宮司木戸松太夫君とは佐野小学校時代の竹馬の友である私は学生時代此の附近では一番好きなところであった。
四ツ池の塔から見たその杜、裏参道の常緑、ひる尚暗き茂みの中に丹塗りの門、その前に立ち並ぶ石燈群、何遍か水彩に油に拙き筆に描いた事であろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・
紀州街道によって社頭を過ぎる度に冠の渕を見る度に貫之を想ひ神秘な物語があの松ヶ枝に碑のかげに蔵されていることを思はないことはない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思へばかぎりなきなつかしの思ひ出も今日を界として幕を閉じることとなった。 ・・・・・・・・・・』
書かれている文章を読みますと、その頃のことを知らない者でも、頭の中に風景が浮かんでくるようです。古来から存続してきた神社を移転させなければならなかった祖父をはじめ神社や村の関係者の方々の無念は、計り知れないものがあっただろうと思われます。
神社に、時折、遠方から参拝して下さる方がいらっしゃいます。先月5月の連休中には、埼玉県からお母様と息子さんお二人でご参拝されました。「どこか、関西の観光の途中ですか?」と尋ねますと「蟻通神社がメインで、来ました。」というお答えでした。
当神社が息子さんの学校の教科書に載っていたそうで、わざわざ遠いところまで来て下さいました。ありがたい気持ちと、現在は、本来の場所から移転しているので、申し訳ない気持ちとでいっぱいでした。神社に従事する者として、貴重な資料を大切にして、昔の面影を受け継いで、歴史を伝えていかなければならないなと思いました。
参考資料:昭和17年10月製作
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月01日
大阪府神社庁より 今月のお言葉
<今月のお言葉>
己の欲せざる所は
人に施すこと勿れ
孔子『論語』
◎意味 大きな心で人を許し、 また自分が他人からされたくないと 思うことを他人にもしない。 これをふまえて交流しましょう。
神社だより 蟻通神社の権禰宜 2011年05月30日
蟻通神社の旧社地
<蟻通神社の森>
熊野街道沿いの参道(昭和初期)
旧蟻通神社は、高い樹木が生い茂って薄暗く、子どもにとっては怖いくらいだったそうです。権現山など小山がいくつもあり、参道筋には、檜、杉、松、椎などの大木が生えていて、大きな木は、3,4人で抱えるほどの大きさがありました。
参道でもっとも目立ったのは、松で、ついで檜でした。社務所の裏には、山桃があり、桜、榊などもありました。神社の境内は、3町ほどあり、東側に広がっていました。
移転の際に神社の松は、払い下げ、売買され、家の建築材料にされたそうです。移転後の境内配置については、移転前の配置を忠実に再現されています。ご本殿は、コロを使ってそのまま引いて運んで移したそうです。
この頃のことを記憶されている方が、少なくなってきまして、郷土の歴史を研究されている先生方が、聞き取りされた貴重な史料や本を書いて下さっているので大変ありがたいです。
戦時下で、地元の氏子の方々も大変ご苦労された時代に、神社を移してでも存続させようとして下さったのは、尊いことだなと改めて感じます。
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年05月29日