蟻通神社ブログ
長滝の歴史・その2
<長滝(ながたき)という地名の起源伝説>
長滝というところは、わき水(デユ)、泉の多い所で、昭和初年、村内に19か所の泉(出湯)があったと記録されています。
湧水は、ユまたはフチと呼ばれています。長滝という地名に関係が深いのが、クズハユ(葛葉井)で、ここは、JR阪和線の長滝駅の線路の山側に、現在もあります。
「和泉名所図会」には、ある樵(きこり)が犬鳴山の滝つぼに葉を流したところ、長滝のクズハユに流れ着いたことから、犬鳴山から続く、<長い滝>という地名がついたのだという話が載せられているそうです。長滝の扇状地の地形的な特徴を、よくとらえた伝承といえるそうです。
このクズハユの水は、上之郷と長滝に分けられ、長滝の水は、更に西と東に別れます。西は、樫井川に沿った一帯を灌漑し、東に別れた水路は、山手に行きます。古代の稲作には、この湧水は、随分便利で、気候も温暖な所なので、古くから人が住みついていただろうと推測されます。
自分の住んでいる町の名前が、その土地の歴史的な伝承に基づいているのは、平成の大合併などで、元の町名がなくなってしまった方々から見ると、うらやましいのだそうです。
参考資料:長滝の民俗(泉佐野市史編纂委員会) 蟻通神社と長滝( 川口 玄 著 )
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月07日
長滝の歴史
<中世以前> 長滝は、古代河内の日根郡の一部として存在していました。やがて日根郡の一部は、河内から分離されることとなり、これが和泉国賀美郷で、現在の上之郷、日根野、長滝、新家、田尻、中通、佐野を包含する地域でありました。 律令体制のもとでは、この地の行政は和泉国府中におかれた役所によって管掌されましたが、国司が実際に現地に赴任することはなく、賀美郷の実質的支配は、在地の豪族日根造によってなされていたようです。この地の開発の成否は、水の供給にありましたが樫井川が山から平野に出ようとする所に井堰がもうけられ、ここから日根野をはじめ一帯の平野に水が引かれています。 この井堰の所に、古来、大井関神社(日根神社)が祀られており、こうしたことから同社は、おそらく日根造の時代に日根野・長滝・上之郷におよぶ水系の神を祀ったものと考えられています。 大井関神社の祭礼は、現在も日根野・長滝・上之郷の広範な地域が関わっていて、その祭祀圏は中世の荘園の範囲をも超えているそうです。同神社の祭祀圏は、こうした古代の開発の面影を残すものと考えられています。 私は、子どもの頃、長滝に住んでいるのに、なぜ日根神社さんのお祭りに参加するのかよく分かっていませんでした。現在、長滝にお住まいの方々の中にも、古来からの伝承や信仰をご存じでない方もいらっしゃると思います。神社の関係者の私たちが、もっと地域の皆様に知って頂くように、努力しないといけないなと思います。
日根神社さんの祭礼で、春の枕祭りと夏のゆ祭りに、長滝地区の皆様が日根野・上之郷の皆様とご一緒に、ご奉仕していただいています。ゆ祭りは樫井川の水源の安全と夏の災厄除けを祈願するお祭りです。毎年、7月の第三土曜日で、今年は、7月16日(土)に行われます。7月号の市報の裏表紙にも、ご案内が掲載されています。
ゆ祭りでは、「五社音頭」にあわせて、浴衣姿の3町のご婦人方が、踊りを奉納致します。長滝町内会のご協力を得て、毎年女性の方々に踊りのご奉仕をお願いしております。暑い中、毎年大勢の方がご参加してくださって、ありがたいなと感謝しております。
今年は、長滝地区は、7月11日に町内会館で練習をさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。
参考文献:長滝の民俗(泉佐野市史編纂委員会)
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年07月05日
泉佐野市長滝村の民間信仰
<境内にある牛神祠について> かつて長滝村には、氏神や寺院のほかに、路傍の石仏や小祠小堂など数多くの小さな祭祀対象物が存在していました。しかし、これらの多くは、明治40年代の神社合祀、さらに昭和17年(1942)の飛行場建設によって、氏神蟻通神社をはじめ、多くの祭祀物が移動、合祀、廃社を余儀なくされました。
長滝には、社寺や庄屋の家に多くの古記録、古文書が伝わっていますが、こういった史料(蟻通神社所蔵文書の「申傳シ御物語」や 「長滝村絵図」や 「道中記A本」など)には、現在は消滅し、伝承すら途絶えた小祠や小堂などの路傍の神仏の存在が記されています。 現在の境内地の本殿脇東奥に牛神祠が鎮座しています。これは、大正13年に長滝3番の牛神3社ともが合祀されたものです。
泉州地域の牛神は、一般的に牛神祭り、牛神座として7月盆に農耕牛の生育を願って祭祀されるが、長滝ではかつて七夕の朝に牛を川や池で洗ったという慣行が聞かれますが、牛神祭りの伝承は途絶えています。
昭和に入ってからの調査では、旧暦7月7日に、宮座の「年寄」で牛を飼っている人が、神社に合祀された牛神に、野菜類を供えて祭祀したそうです。祭が済むと供え物を持ち帰って、牛に与え、農耕牛の健康を願われたということです。
牛神祠です。
郷土・長滝のお話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月30日
蟻通神社境内にある智恵神社について
<境内の東側に鎮座しています。>
●智恵神社(智恵神さんと呼ばれています)●ご祭神・・・蟻通明神の分霊を勧請●ご神徳・・・学業成就・智恵・親孝行・の守護神
この智恵神さんは、蟻通神社の氏子さんでいらっしゃった、大阪教育大学名誉教授で文学博士の芝野庄太郎先生が昭和57年5月に創祀してくださいました。 芝野先生は、残念ながら数年前にお亡くなりになられたのですが、当神社発展のために大変ご尽力下さいました。
●芝野先生がお書きになられた、智恵神の社殿創祀 表白文です。
『 蟻通大明神は済世利民の誓願に則り、当地に鎮座ましましてよりここに二千年、御威徳のもと氏子は恩恵に浴し、生活は愈々繁栄して今日の隆昌を迎う。
本日蟻通大明神の智恵親孝行の分霊を勧請してここに祀る。栴檀(せんだん)は双葉より香ばしく、三ツ子の魂は百までと言えり。
されば誕生の忌あき参り(初宮参りのことです)、七五三の祭、十五歳の立志式、二十歳の成人式に学業の成就を祈り心身両面の健全な発達のあらしめんことを祈り奉る。
いまや国際的、国内的に変化激しく、生涯にわたって学習すべき時代となる。学業にすぐれ、業務に熟練すべき智恵を授けたまわんことを。
更に請い願わくは、家庭は、核家族にして高年齢化の構造となり、老人福祉と親孝行が求められる社会なれば、老人を敬し孝養の誠を尽し、家門の繁栄と各願成就の利益を垂れ給わんことを。
更に仰ぎ願わくは東西南北の経済摩擦をなくし、核兵器を廃絶し、世界は平和にして、二度と戦争の惨禍なく、万民に幸福なる日々の生活を送らしめ給わんことを祈り奉る。 昭和五十七年五月一日 蟻通神社 氏子 大阪教育大学名誉教授 文学博士 芝野 庄太郎 敬 白 』
大変立派な文章で、先生の高潔で信心深いお人柄が表れています。今から28年前に書かれた文章なのですが、その当時に高齢化社会や世の中がグローバル化していることや核の問題など正に現代社会が直面している問題を先見の明で見抜かれていたのはさすが先生だなと感服いたします。 ●智恵神社です
お宮の四方山話 蟻通神社の権禰宜 2011年06月23日
末社さん・その4
<境内にある4つ目の末社さんについて>
4.和泉五社です。● 和泉五社とは 和泉の国は、五畿内の一にして元正天皇2年(716)、河内の国より分かって和泉監を置きます。和泉の国は、大鳥郡(10郷)・和泉郡(10郷)・日根郡(4郷)の三郡・24郷ありました。 第一宮 大鳥郡・・・大鳥大明神 第二宮 和泉郡・・・穴師大明神 第三宮 和泉郡・・・信太聖大明神 第四宮 和泉郡・・・積川大明神 第五宮 日根郡・・・日根大明神
以上が和泉五社の大明神です。 平安時代においては国司は、任国の主要神社に神拝するのが例になっていました。また、諸国国内の神社の管理・祭祀は国司の任務であり必要に応じ奉幣などを行うこととなっていました。
平安時代後期以降に成立した一宮、総社などは、国司の神拝や任務の執行にあたって国内神社の序列化が、起源ではないかと考えられています。また、そうした国司の側の主導で成立したというのでなく、諸国国内において自然発生的に生じた神社の序列を、国司の側が公認したものであろうとする見方もあるそうです。
いずれにしても一宮・二宮・三宮といったその序列は、準公的な一種の社格として機能しましたが、必ずしも固定的なものではなく、神社の勢力が変化したことなどによって入れ替わった例もあるそうです。
第五宮の日根神社は、日根荘の総社で、昔は、日根野村・上之郷村・長滝村・兎田村を氏子に持ち、旧式内社です。
現在は、兎田村は、氏子から抜けています。
長滝・上之郷は、それぞれの氏神神社と日根神社の二重の氏子ということです。その起源は、いつごろからなのか、私の手元に資料がないので詳しいことは分からないのです。
参考資料:「泉佐野の神社めぐり」
お知らせ 蟻通神社の権禰宜 2011年06月22日